あわら温泉と財産区水道のあゆみ
あわら温泉は明治16年、近郊の農夫により発見され、上水道の歩みも同時に始まりました。
温泉の湧出区域に移住した人々は、温泉区という地域団体を構成し、あわら温泉が誕生したが、この地は低湿地帯のため温泉は出るものの用水が得られず、温泉地として発展させるためには、用水の確保が絶対の条件となり、同17年竹管により谷地の湧水を導水し共同井を建設したのが水道布設の始まりでした。
その後、明治30年に北陸線が開通して以来、あわら温泉は全国的に知られ、浴客が飛躍的に増大しました。そのため、従来の簡易水道を竹管から木管に替えるなどして逐次改良したものの、これでは衛生、防火面からも極めて不都合なため、本格的な上水道布設の要望が強まりました。
大正4年、温泉区はこの要望に対処すべく、上水道布設の計画に着手、同6年には計画がなり、同9年には県内で初めて上水道布設が国より認可された。計画は将来の温泉の発展を十分に考慮に入れたもので、給水人口は2,500人、1日最大給水量は7,500立方尺(210m3)で、当時は未だ電灯も十分に普及していない時代に、牛山区より電動力によるポンプで送水し、各家庭の蛇口に給水するという計画は画期的な大事業でした。
このような大事業であるため、設計の変更、巨額な財源の確保等、難問題が山積みし、工事の着工はかなり遅れて、大正14年3月となったが、翌15年3月には完成しました。給水開始当時の状況を見ると、温泉区内人口1,507人に対し、給水人口880人、観光客の1日平均宿泊客は60人であり、一日最大給水量は2,640立方尺(73m3)となっており、これをみると当時の規模がしのばれ、興味深いものがあります。
給水開始の大正15年は同時に昭和元年となり、以後水道の歩みも昭和の歴史と共に歩むことになるのであるが、これから益々苦難の連続となりました。同15年には創設費の温泉区負担分(起債)は区民の賦課税によって償還されました。当時わが国は、日支事変から第二次世界大戦へと突入するわけであるが、ようやく昭和20年には終戦となり、その間、戦中戦後を通じて疎開者、引揚者の急増をみることになり、給水量に多大な影響を及ぼし、断水は日常のことでした。
昭和23年6月、戦後の混乱した社会の中で福井大地震に見舞われました。温泉区内も倒壊戸数683戸、死者33名を出す大惨事となり水道施設も壊滅的な被害により一瞬にして断水しました。応急復旧は、区民の勤労奉仕及び仙台市の業者の支援で、被災後24日目にして臨時給水することができましたが、完全な復旧は6年後の同29年でした。
昭和30年は水道にとって最も重要な転換期でした。同年4月芦原町は北潟、本荘両村と合併することとなり、水道部は温泉区民の水道としてその権利が損なわれることがないよう、町議会の議決及び福井地裁の判決により施設の所有権を確立し、以後温泉区民の財産として地方自治法による「財産区」を同年8月に設置して運営されることになりました。
昭和31年4月23日に温泉区設立以来の未曾有の大火に見舞われ、温泉街の約半分は灰燼と化しました。この災害復旧にあたり、あわら温泉は都市計画による整然と区画された道路網に近代的旅館が建ち並ぶ全国屈指の温泉地となり、給水量は飛躍的に増加し上水道の役割は益々重要となりました。同35年には水源地拡張工事等で一日最大給水量3,000m3となり、更に同38年には6,000m3となったが、同年の深井戸水源開発により日毎に増加する給水量に応えることができるようになりました。
その後、第5次から第7次までの拡張、改良工事により、現在、認可水量の一日最大給水量14,150m3を賄える事業となっています。